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2010年 03月 17日
はだれ雪白き畑にさびしもよきやべつ三つが獲りのこしあり
永井 秀幸 仮に、短歌に抒情をもっとも大切な要素のひとつと考えるとき、感情語が生きるかどうかに歌のよしあしがかかってくるのだろう。永井さんの、さびしもよという表出には孤独感があって、感情語として生きている。 それは余分を削いだ下の句が支えているから。 引き出しの開け閉めのたびゼムピンが古き磁石に近寄りてゆく 吉岡 馨 感情語が皆無の歌になぜ深い感情が籠められているように感じるか。こんなモノのことに注視している作者を、読者が強く感じるから。例えば助けてと言わずぢっと耐えている人を、一層助けたくなる、そんな具合なのかもしれない。 2010年 03月 14日
おろかにてあはれなりけりなめくぢの溺れ死にたる骸をすくひつ
骸 から 酒井 佑子 仮名とはなんとやさしいものか。 結句の「つ」はなかなか収まる歌を見ない。しかし、このつはどうだ。上の句で見事に「なりけり」を齎したので、つがこのように自然に感じられる。作者の気持ちが作品のなかにある。 用務員さんが検査入院しその間は花のなかりし洗面所花入れ 小野澤 繁雄 字余りの極まった歌。しかし、洗面所の花入れ、それも花の無いそれを詠むところに、小野澤さんの独特のものがある。ちょっとひとは詠まない。中ほどの、「その間は」、これが言えそうで言えない1句だ。味わいの故に、字余りは気にならず。 産み月をひかへて友はしつとりと海を抱へて汗ばみてをり 高澤 志帆 臨月を迎える友人の様子が上手く表現されている。しつとりと、は海を抱へてにかかっている。母性を湛えた瑞々しさを、この擬態語がよく捕らえている。 ひかへて、この1語も簡単なようでよく考えられている。結句のをりは、概して失敗する例が大半であるが、このをりはうまい。 おもかるを「おもっ」「かるっ」と口にするとなるほどこれはおもかる石だ 勺 禰子 なるほどという言葉がこの歌の中で自然な按配で、その分、この歌がいい歌になっている。つまり感情語を入れないことが、大概うまくいく条件である。 このうたはなるほどで歌になった。 二日月吊らるる空をましぐらに切り裂く光り ソユーズの金色 金色 きん 春野 りりん 人工衛星は肉眼で見える。アメリカで何度か見たものだ。空がきれいでないと見えない。砂漠などはとくによい。スピード感があり切れ味のある言葉の運びが心地よい。結句が大きな世界へ広げてくれる。 わたしの家は平地から100メートルほど上った山の上にある。去年の秋は家の近くの坂道でイノシシを見たが、先日はタヌキを二匹みた。のこのこと歩く姿は、やや鈍重そうで、愛らしく、幸せにあれよと思わせた。吾が身、身巡りにも良き事のあれかし。 2010年 02月 17日
![]() カーボンオフセット五円の寄付金の年賀状書く強の寅をんな 高澤 志帆 五黄の寅は昭和25年と昭和61年らしい。ごおうをごうと、子供心に覚えた作者であろう。その話はときど聞くので不思議ではない。強の寅、も独自の造語と思えば味わいがある。結句のをんなが、とても効いている。結句で魅力的な歌になった。 日によりて配達弁当の飯かたし顔近づけて拾い食う粒 小野澤 繁雄 淡々と配達弁当の飯の硬さを語る上の句。なんとも味わいがある。それに増して作者が如実に出ている下の句。小野澤さんのまさに味わいのある1首。 姉いもうと仲良きことをよろこびて父親われに涙はわきぬ 小池 光 まれにみる、率直な小池さんの歌。直球がそのままこころに伝わってくる。ありがたさが、ありがたさとして感じられる。 「ゐるかね」と訊く電話の主は天下り果たしたといふ夫の同期 田中 よう子 初句の「ゐるかね」の導入に尽きる。うまい。電話の主と、作者、つまり妻との関係性が絶妙に表される。天下りを果したという句が初句をきっちり支えている。 一日に川ぐち橋を二度わたり生くる為事(しごと)をけふも終ふるのみ 村田 耕司 下の句の微妙な過剰感を、上の句のしゃれたモチーフで覆って魅力的な1首にしている。川ぐち橋を二度わたるというのがしみじみとして、伝わってくる。 ぢやうざいにくるまれて真夜硝子戸をひく音のしてたれかいでゆく 弘井 文子 くるまれての2句で意味上は切れている。言葉としては切れておらず言いさしで、なにものかに続いてゆく。睡眠導入剤などであろうか。そのぼんやりした意識が、たれかいでゆく、そう感受したというところが面白い。音がして誰か出て行った、それだけで詩がある。 ごめんねと言うたびわれの唇は薄く小さきものとなりゆく 中井 守恵 寂しい歌だ。自意識を詠った歌であるが、自分を客観視するもうひとりの自分がいて、そこを歌にした。 いい歌が沢山あるだろうに、今月はなかなか見る余裕がない。残念だ。ちょっと見ただけの範囲で強く心に残った歌を挙げてみた。 2010年 02月 13日
![]() 21回歌壇賞は切磋歌会メンバーの長嶋信さん。切磋の来宮さんMEGさん、そののち歌会のくもさんも駆けつけて、お祝いした。お雛様のような長嶋夫妻を中に、談笑ヴァージョンを、本阿弥書店のスタッフの方から撮っていただいた。 なんとも晴れがましい、賑やかな会で、長嶋さんの受賞スピーチが素晴らしかった。俳壇賞お二人の授賞も同時に行われ、三人の受賞スピーチがあったが、拍手は断然長嶋さんのスピーチだった。正直で、真摯でペーソスがあった。 この後の懇親会はまた人数が増え、300人近くだった。 短歌人からも、おおっというメンバーが続々と来て、蒔田さくら子さんも長嶋さんとお会いになった。 とてもとても9000円分の食事を食べる暇がなかったが(寿司を食い損ね ^^;)楽しい一晩であった。 有名俳人もアリマさんや、いろいろきてらっしゃった。 仲間からこんな受賞者も出て、切磋歌会をこつこつ続けてきて、ひとつの甲斐があったと嬉しく思った。 賞もふくめて、いろんなメリハリというのは、とてもいいことだ。 2010年 02月 10日
朽ちて虫に喰はるる夜も鳩尾に黒い目の犬を抱けり男
酒井 佑子 壮絶な歌である。であるが、ちょっと見には分らない。なにが壮絶か。 朽ちて、死んで。埋められて、土葬が象徴的にイメージされている。その男が、愛犬を鳩尾、すなわち、もっともおのれの心臓に近いところに、抱いているというのだ。 酒井佑子の歌は、この執拗な感覚が、時代を超越したような不思議な雰囲気のなかで、格調高く詠われる。だれも真似できない。 2010年 02月 06日
![]() 先だって「アレクセイと泉」という映画をみた。 チェルノブイリ原発の直ぐ近くの村の話だ。其処の村には、移住を拒んだ60人ほどの老人達が住んでいる。そして若者がただ1人住んでおり、老人達の有力な助けになっている。 その村の中央に泉がある。 国の検査で、その泉だけは放射能が検出されなかった。 泉は滾々と湧き出ている。 飲み水も、洗濯も、村人は昔からすべてこの泉で行ってきた。 村人は農民である。農作物をつくり、自給自足の生活をしている。 お金はほとんどいらない。 村の景色をみていると、ミレーの絵を彷彿とする。ゴッホの絵を彷彿とする。 まことにきれいな村だ。 中世のままの生活。 現代世界で奇跡のように、自然で美しい人生を送っている。 映画では、ひとこともチェルノブイリ原発の批判は出てこない。 淡々と放射能の無い泉の生活が描かれる。 それがかえって訴えるものがある。 素晴らしい映画であった。 ひとのこころに清らかなものを運んでくる映像であった。 2010年 01月 21日
![]() 東京の神田神保町の学士会館にて短歌人の2010年新年歌会とパーティーがあった。 残念ながらカメラを忘れたので写真はなし。 140人が全国から参集した。壮観であった。 だいぶ慣れてきて、知った顔が数十人に増えてきた。 夏の会と違って、新年の会はなにか時間に追われるようにどんどん物事が進んでゆく感じだ。 人の寿命を地でゆくような趣がある。 新年歌会に先立って、早朝から付近のボウCoffee Shopにて、新人会の新年の会合を持った。 新人会も20人という大所帯になってきた。 新人会Web歌会はクローズドで行われているが、そのレベルが高いので、ネット歌会といっても 侮れない! 物事は、どんな晴れがましいことも、すっと過ぎて行く。過ぎて行くと、終わってしまう。 終わってしまうと過ぎたことになる。 当たり前のことであるが、しみじみと感じたものだ。 物事の過ぎ行きに比べて、人との繋がりはより手ごたえと充実感がある。 人は愛しいもので、哀しいもので、早晩朽ちて行くものだから、大切だ。 そんな目で、愛すべき知り合いたちを、新年歌会で見、挨拶とさよならを言った。 (写真は三が日に那須野の八幡神社でみた千年杉) 2010年 01月 21日
![]() 会員1 札入れに父は魔法をかけてゐた抜いても抜いてもいつもざつくり 朝生 風子 この作者は言葉が新鮮だ。古びていない。そこがとてもよい。若いのかもしれない。 ゆふ闇に哀しみをりぬ夕は暮るるひとは尽くとほくにをりぬ 矢嶋 博士 2句と3句で2回切れている。この2回切れの破格も、初句2句の結論の早出しも、下の句の良さがあるが為に、気にならないほどだ。下の句が味わい深い。 野には野にあるもの同士みちの辺のホトトギスをば蔓にてくくる 高橋 とみ子 韻律がとてもよい。野には野に、もうこれでポーっとする。題材も詠いぶりも、癒される。 会員2 女高生の「リアル哀しい」の声を聞くものの哀れであるはずもなく 小林 恵四郎 これはこれでうまく切り取った1首。しかし、女子高生は女子高生の哀しみがあるわけで、その時代その時代でものの哀れは変わるものだろう。 同人1 明日のため豆腐買ふことを思ひ出で理性寺の昼ひだまりにをり (りしやうじ) 酒井 佑子 明日への約束がしみじみと伝わってくる。豆腐という題材が上手い。 トリニダード・トバゴの夕陽見てゐたりまたいつの日か帰去来(かへりなむいざ) 小池 光 知らぬ間に小池さんはトリニダードトバゴに行っていた!驚く。なにげないもの言いが、心に響くようになってきた。 千代田線のシートに深く腰を下ろし幼児むずかる声を聞きおり 今井 千草 何気ないのがよい。4句は「幼児の」とのを入れるか迷うところだ。 2010年 01月 06日
![]() あけましておめでとう御座います。 今年もよろしくお願いいたします。 3が日は那須塩原温泉へ行ってきました。那須のなかでも高台の湯元地区へ。雪が道路にまで積もっていて、雪国でした。 湯がとてもよかった。硫黄泉で白濁していました。朝晩入っていたので、体中から硫黄の匂いが。 30分以上は入ってはいけないという注意書きがあるほどの、強い温泉。それも、42度に保たれていて、ぬるめのなんとも気持ちの良いものでした。 昼はりんどう湖へ。そこに牧場があり、子牛もたくさん。牛と言う動物はなんとも人懐こい。馬とはずいぶん違うものだということがよく分かった。馬もたくさん飼われていたので。 那須野へ足を伸ばして、川べりの露天風呂へ。混浴でした。 久しぶりの雪を満喫した3か間でした。那須は懐が深い。是非また違う季節に行きたいものです。 2009年 12月 31日
![]() 新しい年が始まります。 みなさまにとって良い一年でありますように、こころより祈念いたします。 最初ですからたまには自分の歌で。 浜、湊、津など海辺を思はする駅を通りて堺に 着きぬ 長谷川 知哲 阪堺電車を貸しきって行われた関西のチンチン電車吟行歌会のときのことを詠ったものです。堺と言う町へ行ったことがありませんでしたので、嬉しかったのです。天正時代、堺が都市国家のような形を作ったころは、海岸線がずいぶん違ったのだろうなあと、地名を見ながら思ったのでした。 2009年 12月 15日
![]() 日曜日の忘年会で、宴たけなわの中頃、なぜが小池さんに呼ばれてとなりの席へ。 足を悪くした歌を3ヶ月ほど出していたので心配してくれた! クレニオ・セイクラルという体に働きかける技術を(謂わば整体のごとき)もつGFに 思い余ってきいたら、直してくれた。すごい技術だ。手技。或いは体の深層にまで働きかけるチカラ。 そこで、ネフスキイ。 岡井さんのこの分厚い歌集をのなかから。 宿敵と語りしことも遠くなり今日小さなる池をまたぎつ 岡井 隆 吉本隆明が宿敵。間違いなく。それが遠くなった。時間も、そして双方歳もとった。吉本さんは大病までした。そして今日、つまり此の頃だ。小池さんと話をしたと。まだまだだぜ、小池くん。そういっている岡井さんが見えるようだ。しかし、歌にまで名前をだして小池さんを挙げる。つまり、買っている。 以上、知哲の読み。 2009年 12月 10日
![]() 雲仙岳の火砕流にて天草四郎の人物画は焼けてしまひき 山寺 修象 これはこれは。韻律への挑戦と試みです。77867となる。不思議に778、これらの字余り群は短歌のつもりで読んでしまう。ところが4句の6音でふにゃりと暖簾を押したような気分となる。字足らずの特徴だ。最後結句だけが定型7音で、それで短歌と納得させられてしまう。6音の欠落感、それがこの歌の中心だ。意味も消失であり、それと呼応しているかもしれない。 こころあそべ手足も遊べきぼうの黄きいろの花を寄せ植えしている 松崎 圭子 連作を読むと、これがなんともしみじみと悲しい歌であることが分る。松崎さん出色。その前の歌は「まず立たせ背後より抱けば胴ほそく四足歩行の夫とわたくし」。夫を介護しているのだ。 ジャムの蓋ぽかっと開いて今日われは朝雲のように気力みなぎる 木曽 陽子 一転して、まことに陽のエネルギー溢れる歌。木曽さんは、こころが少女のように笑う。純粋に笑う。笑顔がすばらしい。そういうひとが、こういう歌を詠うことができる。施しているのだ。笑顔も歌も。微笑布施。 この街の秋は早めに来るらしい自転車を降り風の道ゆく 関谷 啓子 彼女がもっている時間・季節・自然というものとの距離感がよく出ている。普通と違う。なんとなく夢の中のようで、現実感が薄いというのとも違うのだが、ふわりと自分の意識が軽いのだ。それが言葉に出ているのだから、それを文体という。 蟋蟀のしつしつしつと鳴くがあり勝手口より秋はきており 今井 千草 しっしっしっではない。しつしつしつである。結句が新仮名だから。この擬音が上手い。「が」が個性を作っている。骨格がしっかりして安心して読める。下の句の座りの良さからは、読んでいて安心がやってくる。 2009年 12月 09日
![]() 富有柿冷ややかに食む食み終える私のことは私が決める 水谷 澄子 はにかみを隠しているのに、自分を捨てたがって、6割がた捨てた風になってきた水谷さんは、そのままこの歌に出ている。 はだすすき末(うれ)も逢はむと言ひしばかり往きて反りぬ秋ふかみかも 酒井 佑子 はだすすきは末にかかる枕詞。また逢おうと言っただけで、かえってきたが、秋が深まってきた、そういう意かと思う。普通のことが大切なことに感じられる、まるで平安の時代のような雰囲気がする。 朝夕にかがみの中のしわ顔にあきらめないと練り粉ぬり込む 岡田 経子 練り粉とはどんな粉か? 女の仕草は、男には永遠になぞだ。 しかし、先住民は男がいろいろ練り粉を塗るようだし、こちらが現代病でもともとの素質を失ったのか? あきらめないと、に正直な声が出ている。 奮発しかさぶらんかの大鉢を買ひきて古希を自祝したりき 永井 秀幸 叙情のひとはかさぶらんかの鉢を買う。あの大振りな、あでやかな、西洋人そのもののようなカサブランカ。アジア人は植物に託して脱亜入欧を目指す。しかし、永井さんの古希を、この場からもお祝いしたい。 金鳥の渦巻なほも燻らせて夏惜しみをり彼岸の入りに 斎藤 寛 つまり蚊がいるということ。しかし斎藤さんは蚊には気を捕らわれず、夏を惜しむという風流心をしみじみ感じている。伊豆ではこうは出来ないなあ。藪蚊の力が異常に強いから。 淋病も梅毒さへも手馴づけし荷風の蝙蝠傘(カウモリ)どぶ板を突く 朝生 風子 荷風が眼前に現れてくるような迫力がある。結句で動きがでた。この人は独特の感じ方があり、面白い。一言いえば、ぼくなら結句は、どぶ板を抜く、にする。 2009年 12月 05日
情愛の人、また文武の人、依田仁美さんが代表編集人である『舟』を初めて拝見する。
歌人俳人詩人作家、大勢が参加している。面白い。濃い。 その中から。 「東洋的夜」 萱野原さよ 広大な熱帯の砂漠 昼と冷気と灼熱の夜 大きな麻のズタ袋に 金貨宝石こき混ぜて 運んできたのが 詩人従える商人たちでも 絶望の熱情に死ぬのはやめよう 喜びの苦渋に 瞼開く孤独だってある 梟の産み落とした満月に 亀裂はしり炸裂しても 釈迦の頭上にひらく 菩提樹の花に 水は必要だ 歌詠みの癖かもしれぬが、結句で明らかにしてしまうのを潔いととるか、蛇足ととるか。 ぼくなら削る。 魂が啼くなら蜩(ひぐらし)の声で 宮本 美津江 ひとひらの雪になるため海にゐる この人の俳句はいい。2句目などは、短歌とはこう違うということが如実にわかる。短く一つだけパッと云う。 短歌の吾、私性と、この句の吾を比べてみると、吾はしっかり居るが、説明しない分、乾いている。俳句という句形が、吾を潔くあらしめる。ちょっと羨ましい。 南無馬頭観世音菩薩とありし碑に祈るヒトを許すなかれと 宮本 美津江 しかし、俳句作者が短歌を作ると、こんどは一転して説明的になってしまう。日露戦争以来、徴発されて亡くなった軍馬の慰霊碑は日本のいたるところにある。万霊の慰霊碑もまたしかり。乱暴な論は若さに免じておく。 2009年 12月 05日
![]() ホームレスのわれに十月きていちまいのジャンパーあること慈愛は深く 矢嶋 博士 破調をどう生かしめるか。ヤシマさんの場合は、慈愛で生かしめる。あること慈愛は深く、この言いさしに作者の真情がおのずと滲み出る。隠してもだめです。慈愛の無い人は破調は成功しない。つまり形をもとめて破調を追求しても駄目だということである。 夕暮れのバス停に佇つ学生風が「俺はごとーを待つ」と言ってる 久保 寛容 演劇をやっている学生がベケットを気取って洒落を言っている。その場に作者が居合わせた。学生風、と言って学生を表すところなど手馴れている。言ってる、なども簡潔だ。 生きゆくを何があつてもたのしいと云ひきるまでのながき逡巡 水原 茜 結語が逡巡とあるだけに、それまでの表現がすっと流れることなく言いよどみ言いよどみして至るところがいい。 2009年 12月 04日
![]() 海洋堂のおまけが欲しいいとこからもらひしチョコのたたりを浄む 高澤 志帆 いとこ同士のちょっとした鞘当である。どんなおまけか、興味あり。 しかし、結句が効いている。志帆ちゃん、さすがうまい。いとこという、微妙な関係性を持ってきたのも、1首を立たせている。 翅をかう肩甲骨の上へ吊り上げ赤とんぼ飛んでゐるなり 西尾 正美 3句と4句が苦しい句またがりになっている。あるいは、ひどく破調にして3,4,5句を7・5・7と読ませたいのか。3句を次へ句またがりにするのは、ぼくの感じでは9分9厘失敗する。それは、3句のあとに自然な1拍が備わっているから。しかし、会員2に面白い人が現れた。初句のかうなどと言うところは憎い。 あの夏のわれらふたりは轟轟と水吸い上げるポプラであった 中井 守恵 われらふたりとは、自分と妹である。なんという比喩。なんというアナロジー。卓抜。 ABBAの歌 ハモって歌って盛り上がる 僕と母とで二人カラオケ 上村 駿介 中1の駿介くん、おじさんはABBAを知らない。スエーデンの音楽グループらしいのね。一字明けをしたりして、技巧を試みている。韻律がよい。 たつぷりと湛へしのちの水に挿すてつぽう百合のつぼみのみどり 春野 りりん 安心がやってくる。それは歌の座りがいいから。言葉の選び方、語順、そこに作者の風格がでてくる。なんということもないことを、歌って安心を表出させる。これくらい出来る作者は会員1・2では、この人がぴか一だろう。最近の高瀬賞の各受賞者より一段高い。 ラヂオからはノイズばかりがやむごとなき こゑなんてもの蝉は聴かない 田宮 ちづ子 表現技巧といい、テーマの取り方といい、この1首はすばらしい。今まで見た一字空けのなかで最も効果的なもの。やむごとなき こゑ、とやって、一言ですらりと通ずるものではない声が表されている。それも、その前のばかりが、で実は一度切れていて、意味上はなきこゑ、のところは切れていない。そのねじれが、テーマにふさわしい効果を作っている。 2009年 12月 02日
![]() 入りかかる日の赤きころニコライの側の坂をば下りて来にけり 『赤光』 斎藤茂吉 アララギの俊英たちに、ニコライの側の坂という把握、表現が評判がいいのは周知の事実である。確かに、そばの坂、とは当たり前のようでなかなか言えない。 ニコライは、当然御茶ノ水にあるニコライ堂である。この茂吉の歌は明治38年頃とされており、ニコライ堂周辺は今とは隔世の感があるだろう。まったく田舎田舎したものだったろうと想像する。ただ、山形の正真正銘の田舎から出てきた茂吉には、断然都会風であったのだろう。 ぼくの注目したのは、入りかかる日の赤きころ、この語順である。入りかかる、の次に直接繋がる日を持ってくる。入りかかる赤き・・とはしない。句の最初にストレス(アクセント)がある。入り、を強く言う。日の、を強く言う。初2句がそうで、4・5句も最初にストレスがくる。途中の3句は静かに読み進む。そんな微細なところで、歌の雰囲気、つまり緊密感がきまってくるのだなあと感じた。 2009年 12月 01日
昨日夢をみた。
二本立てであった。 最初はアメリカで運命の出会いをした吉田行典上人さまが出てこられ、久しぶりにお姿を拝見して、懐かしくそして敬虔な気持ちになった。 後の夢には清水房雄先生が出てこられた。お会いするのは三年ぶりか。とてもお元気で、ぼくを心配してくださっているご様子が伝わってくるので、この際甘えてしまおうと、今月の短歌人誌を走って取って来た。読んで下さって、コメントを言わずに、「ものに目を透すんだよ。」と仰ってくださった。 なくなった妻の誕生日の晩の夢である。ありがたし。 2009年 11月 14日
![]() 傘通らんが辻にやさしく受けとめてもらひぬ今を君と吾の今を 勺 禰子 傘通らんが辻を擬人法にして今と言う儚くも尊い時を詠った相聞歌。作者のものに対する気持ち、君に対する気持ちが切なく伝わってくる。「傘かしげ」をしないと通れないほどの狭い道辻なのだろう。結句9音破調の字余りがむしろ詠嘆を強くしている。いい歌だ。 代々の祝女(のろ)の吐息のみなぎれる御嶽(うたき)にて身は震へやまずも 春野 りりん 沖縄のいずれかのうたきを作者は訪れた。うたきは霊場なので、感応の強い人はだれでも反磁場の霊気を感じるものだ。正直な述懐を鮮やかに歌にした。 ほろよひの夜話に死ぬ順決めしことなどをおもひつ結婚記念日 本田 鈴雨 今回のではない以前の結婚記念日にほろよいで死ぬ順を決めたのだろう。仲良し夫婦ならばだれでも経験することで、共感がある。若者ではない、中年以降にさしかかった印のようなものだ。作者は、底に明るさがあって、それが自然に歌にでる。いいことだ。 給付金全てを競馬に注ぎこんでサッパリキッチリお国へ返す 大矢 信夫 さっぱりさが潔い。歌がである。サッパリキッチリというオノマトペがこの歌の決め所で、それがうまく行った。お国へ返すという結句の表現は作者の人柄をことばに載せてうまい。 2009年 11月 14日
![]() あぶの羽音やぶかの羽音ぶゆの羽音みみを充たして踏査はじまる 弘井 文子 なにごとかを調べる為の踏査。羽音を3度繰り返して、その裏にある現場の困難さがリアルに表現されている。ぶよだとばかり思っていたら「ぶゆ」が正式名でぶよは別称であることを教えてもらった。姿は未だ見たことが無いから不思議だ。 オーライオーライ若きこゑなどまじりゐて塵芥車ゆく秋たつ朝(あした) 川井 怜子 初句の8音がこれだけ嵌った歌も珍しい。続く2・3句がうまい。情景が生き生きと目に見えるようだ。ゑとゐの仮名の使い方も周到で好感あり。塵芥車っていうんだ。川井さんは何でも知っている!結句も爽やか。 集中力はたとそがれて一匹の蝿を叩きに椅子より立ちぬ 柊 明日香 その感じ分る分ると思いながら読む。窓から出て行ってくれれば殺さずに済むのに、などと考えている柊さんの姿が目に浮かぶ。特に一匹の以下の韻律が心地よい。 さいたま市高砂あたりの街歩く小池光にばったり出合ふ 野村 裕心 そんなこともあるんだと、僥倖を喜びながら読む。このお二人が会うのが嬉しい。その後どうしたかと思うと、こんな嬉しい歌が。「彼もまた目を見開きてよろこびぬ『やじろべえ』にて珈琲を飲む」うんうんそうだ。 夫と吾の暮らしに笑ひ声絶えて久し畳に黴の生えたり 水田 まり ちょっと驚いた。最初は上の句と下の句との因果を読んでしまったから。しかしよく考えると、湿気の多い家相であれば、梅雨時は普通に畳に黴も生える。こまめな通風が必要だ。上の句と下の句をそっけなく繋げて、この不思議な味わいが歌になった。工夫して笑ってくださいね。 水音を聞きたくなって多摩川にひとり来たれば淡きゆうぐれ 中井 守恵 守恵ちゃんには詩神が微笑んでいる感じがする。美しい歌だ。それだけでなく、愛しい感じがするんだなあ。自由に思ったままを詠っているようで、それでいて結句できりっと詩にしている。彼女には、こんな歌は、特に旧仮名で書かせてみたい。ゆふぐれ、の方が似合う。歌に流れる時間がゆるやかなのだから。 久々にキャッチボールに誘われた たまには父の相手をせねば 上村 駿介 おおっと思った。父は、たまには駿介とキャッチボールしてあげようと思ったに違いないのに。ふふ。中学一年の駿介くんは気持ちも歌も、確実に成長している。 「だんだんと逆転しますな」職退きし夫の電話が隣室より洩る 小野 さよ子 わははと笑ってしまった。同時に切なくなる。「逆転しますな」の、しますな、この口吻がなんとも夫の人柄が出ていて、結句の簡潔な物言いも効いていて、いい夫婦だという雰囲気が伝わってきます、小野さん。
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